そのまっ黒な、松やならの林を越えると、かにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へわたってい
るのが見え、またいただき の、天気輪てんきりん の柱も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめん
に、夢の中からでも薫りだしたというように咲き、鳥が一疋いっぴき 、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。

――宮沢賢治





空を亘れ





 最近彼女は読書に目覚めた。読みたい本のリストを作っては僕に借りてこいと命じる。依頼でもお願いでもなく
命令なのが何とも言えないけれど、今までの要求に比べれば遥かにおとなしい内容だし、知的好奇心の発露は喜ば
しい。だから僕も素直に従う。
 まずはいわゆる文豪の作品を押さえておきたいのか、リストにはいつも錚々たる名前が並ぶ。僕としても近代文
学史を再確認するいい機会になって、図書館を訪れるたびに長居しては様々な本を読みふけり、帰りが遅いと怒ら
れた。もっとも、いざ読み始めれば彼女もすぐに作品世界に没入し、怒りを忘れてしまうのだけど。
 僕がいるいないに関わらず、彼女は暇を見つけては部屋を訪ねてきて本を読む。時々棚の辞書の位置が変わって
いるのは、分からない単語を調べたためだろう。小さな子供には難解だろうから。そのくせ僕がいる時には頑とし
て辞書を引こうとしない。教えてくれとも言ってこない。変な見栄を張らなくてもいいのに、と気付かないふりを
してこっそり笑う。
 その代わり、彼女は別の形で僕を活用する。

「これを読むの」

 尊大に言い渡して、ページを開いた状態の本を差し出してくる。朗読しろということだ。あまり長くない作品の
場合、たまにこんな要求をしてくる。現代では一般的ではない言い回しにてこずるせいかもしれないし、単純に黙
読とは違う楽しみ方がしたいからかもしれない。
 どちらにしても僕も嫌ではない。一人ではないからこそ出来ること。
 ベッドに腰掛け、読む体勢を取ると、彼女も隣にちょこんと座って、身を乗り出して覗き込んでくる。
 今日頼まれたのは『銀河鉄道の夜』だった。


「――『ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんや
りと白いものがほんとうは何かご承知ですか。』先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけ
ぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問をかけました。


 読みながらちらりと彼女を窺う。
 僕の視線にも気付かず、これから始まる物語への期待で頬を紅潮させている。


「――『ですからもしもこの天の川が本当に川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの
砂や砂利の粒にもあたるわけです。』


 銀河の授業を受けた日の夜、気が付くとジョバンニは汽車に乗っていた。
 向かいの席には友人のカムパネルラ。窓の外には、


「――『そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか。』
 そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさ
ら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。
 『月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。』ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快になって、


 汽車は幻想的な景色の中を走っていく。
 白鳥の停車場へ、アルビレオの観測所へ。


「――その一つの平屋根の上に、眼もさめるような、青宝玉サファイア黄玉トパースの大きな二つのすきとおった球が、輪になって
しずかにくるくるとまわっていました。黄いろのがだんだん向うへまわって行って、青い小さいのがこっちへ進ん
で来、間もなく二つのはじは、重なり合って、きれいな緑いろの両面凸レンズのかたちをつくり、


 様々な人々を乗せて汽車は走る。
 一心に彼女は聞き入っている。


「――もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってし
まいたい、もうこの人のほんとうのさいわい になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥を
とってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。


 真剣な面持ちで。
 僕が読み進めるのに合わせて目で活字を追いながら。


「――ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔ったようになってその火は燃えているのでした。
 『あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。』ジョバンニが云いました。
 『さそり の火だな。』カムパネルラが又地図と首っ引きして答えました。
 『あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ』


 赤い蝎の火。
 こんな瞳のような色かもしれない。


「――『僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。』
 『だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。』女の子がさびしそ
うに云いました。


 彼女がほんの少しだけ身じろぎする。揺れた髪が僕の腕に触れる。
 感じるぬくもりは多分幻覚。感じる吐息はきっと錯覚。
 でも滑らかな髪の感触は、僕にとって現実の感覚のはずだった。


「――『僕もうあんな大きなやみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこ
までもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。』
 『ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天
上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。』カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指
して叫びました。
 ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云っ
たように思われませんでした。……


 まだ続きの残っている本を閉じる。
 夢から覚めたように彼女は瞬きをし、物問いたげに僕を見上げる。

「今日はここまでにしよう。眠くなってしまったよ」
「根性なし。最後まで読みなさいよ」

 憤然とした抗議に、ごめんね、と謝る。

「お詫びに明日は外へ連れて行くよ。星を見よう」
「本当?」

 パッと顔が輝いた。

「天の川は見える? 白鳥や蝎は?」
「晴れたらきっと見えるよ」
「じゃあ、晴れるようにお祈りするの」

 言って、いそいそとてるてる坊主を作り出す。微笑ましく見守りながら僕は就寝準備にかかる。
 遠足の前の日のように興奮している彼女は、ベッドに入ってもしばらくは明日への期待を語り続けていたけれど、
やがて喋り方がとろんとしてきて、程なく寝入った。安らかな寝顔に一つ笑み掛けて、まだ重くない瞼を開けたま
ま僕は仰向けの体勢を取る。今なら無機質な天井すらキャンバスにして、星空を描けそうだった。青や金や赤の星、
その中央には白い川。

 物語の続きを僕は知っていた。二人の少年の旅は突然終わる。望みは叶わない。
 彼女がそれを受け止められないほど弱いとは思わない。でも最後まで読むのは躊躇われた。明と幽の狭間の交流、
現と幻の境の時間……どうしても重ね合わせてしまう。


 僕達は――僕達はどこまで行けるんだろう――。
 切符に書かれている停車場は――。


 彼女は眠っている。生ある者と変わりなく。生はなくともここにいる。僕もゆっくり目を閉じる。
 明日は晴れるといい。綺麗な星空を仰げるといい。きっと彼女は喜ぶだろう。
 そして一緒に、遠い遠い汽車の音を聞こう。







『僕たち一緒に行こうねえ……』


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